平和文集2005

光陽生協歯科九条の会 ホームへ

はじめに

戦後、日本国民は新しい憲法のもと『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないよう』決意し、戦争反対の立場を貫き世界の平和に貢献していきました。しかし政府は、アメリカの戦争政策に追随し日米軍事同盟強化と国民をアメリカの戦争に強制動員する有事法制の整備を進めています。そして、“大義”のないイラク戦争(2003年3月20日開戦)を支持し、戦後初めて戦闘地域に自衛隊派兵(2003年12月26日航空自衛隊先遣隊・第1陣を派遣)をしました。

今年は、戦後・被爆60周年の年です。憲法改悪の動きが急速にすすむ中、これまで平和憲法に守られてきた私たちが平和憲法を守るときです。いまこそ私たち一人一人が自分自身の生き方とも重ね合わせ、いのちと平和の尊さについて考えて生きましょう。

そして“平和と憲法を守るために何かしたい”との思いを持つ多くの人々と協力し大きなうねりをつくり広げていきましょう

原水禁世界平和大会に参加して  平和アンケート  終わりに  ページのトップへ 


原水禁世界大会に参加して
   歯科事務 津森紗代

8月4日から6日までの3日間、広島で行われた原水爆禁止世界大会に、参加させて頂きました。今年は被爆60年という事で、広島・長崎共に大きな平和のイベントが開かれ、世界中から、本当にたくさんの人が広島に訪れていました。

私はこの3日間で、3人の被爆者の方の体験を聞きました。原爆が落とされた後の苦しみや、たくさんの人が悲惨な死に方をしたこと、今も続く原爆症のつらさなど、ほんとうに悲しく、つらい話でした。どの方も、あんなことはもう二度と起こって欲しくないとおっしゃいます。しかし今も戦争で苦しむ国があり、被害は大きくなる一方です。広島・長崎を繰り返さないでという、被爆者、遺族の方の思いが届き、平和な世界になるようにと、皆でお祈りをしてきました。生の声を聞き、戦争の恐ろしさを改めて考えることができました。良い機会を頂き、ありがとうございました。

原爆ドーム。原爆の熱風が上から垂直に降ってきたために、この建物は残ったそうです。

貞子の像。原爆症で、最後には白血病を患い亡くなった女の子の像です。たくさんの亡くなった子供達のために、署名と寄付で建てられました。

式典。原爆が落とされた時間に、皆で黙祷しました。世界中からたくさんの人がこの式典に参加しています。

韓国人慰霊碑。たくさんの外国人の方も犠牲になりました。

原爆が落とされた時間で止まってしまった時計。 リトルボーイという名前の原子爆弾。たった3メートルしかありません。この小さい爆弾がたくさんの命を奪いました。

組合員さんの気持ちのこもった千羽鶴を平和公園に飾ってきました。


原水禁世界平和大会報告  平和アンケート  終わりに  ページのトップへ 




平和アンケート  

 戦後60年を迎えるにあたり、当院に治療にきて頂いている60歳以上の患者さんにお願いして、以下のA項目をアンケートしました。

1.当時の心に残っていること、また苦労したことなどお聞かせ下さい。
2.あなたの平和に対する思いをお聞かせ下さい。

終戦当時12歳男性

  1. 終戦後は生活が苦しく唯それだけが頭から消えません。
  2. 全て平和と幸福を祈るだけです。

終戦当時27歳男性

  1. 中国に捕虜で1年いって、農業やトイレ掃除などをさせられこきつかわ れた。戦争・地震・水害などで家が何度もダメになった。食糧もお金もなく逃げてまわった。
  2. 今の若い人の生活をみていると、だらしない。小泉総理の靖国参拝もっと考えるべきだ。日本の兵隊は中国でひどいことをした、中国人が怒るのは無理がない。

終戦当時8歳男性

  1. 食事に大変苦労した。
  2. 平和が永くつづくように

終戦当時7歳女性

  1. 福井空襲で母とにげまわった事
  2. 戦争は絶対してはいけないと思います

終戦当時11歳女性

  1. 空襲でひどいめにあった、靴がぬけて痛いめにあった。
  2. 平和は大切です。 

終戦当時8歳女性

  1. ミシンを踏んで仕事をしていた。爆弾がおちて走って逃げた。実家は清水町だったので歩いて帰ったが、途中でお腹がすいて、よその家のなすびをとって食べて帰った。清水町は大丈夫だった。福井は真っ赤に燃えていた。

終戦当時21歳女性

  1. 田舎に疎開していた。草をとって食べて逃げた。食べ物がなかった。空襲で裏の田んぼ、畑へ防空頭巾をかぶって逃げた。
  2. 戦争は嫌、平和にこしたことはない。

終戦当時25歳女性

  1. 大八車で荷物疎開、手伝いなど。夫は兵隊にフィリピンにいって、娘が22歳の頃やっと帰ってきて。空襲の時、火葬場へ町内でみんなで逃げた。実家が畑をしていたので、食べ物はあった。
  2. 苦労、苦労だった。戦争はもうイヤ。

終戦当時?歳女性

  1. 二度と戦争は行かない様、心よりお願い致します。(私事)女学校時代でしたので、勤労奉仕は心の脳裏にしみこんでおりますが、勉強をしたおぼえはうすれております。失礼致しました。
  2. 堤防を絹製品の上下(モンペと下着)を着て深谷迄走って逃げました。真暗の闇の中を。ついたときは胸から下とお腹の下からは何も残っていませんでした。

終戦当時12歳男性

  1. 特攻隊に志願し日本を救おうと思っていた。
  2. 終戦の翌年旧制中学に入り教科書もなく、物もない、ないないづくしの中で、新しい憲法の学習をする中で過去の間違いが解明し、民主主義と自由の大切さをしり、学生運動、青年運動、文化運動に頑張るようになった。

終戦当時8歳女性

  1. 福井市栄町(現在、九十九町)から、祖母と妹と逃げた。私たちだけでだれもいなかった。花月橋に飛行機が飛来して、米弾落下(西別院?)突然明るくなり、真昼の様になり堤防が避難のひとで、ごったがえした。人混みの中で、母のもんぺの柄を探して後について逃げた。近くの鉄塔に爆弾が落ち、後でうしろをみると、真っ赤で家の方角も燃えていた。飛行機の機影もみえた。途中で河原におりた。父は郵便局(電信)で、宿直(九十九橋近く)。無事局員と共に避難して、後で町内の避難所で再会したが、町内の人は娘さんがこないと泣いていた。(娘さんは女学生)

終戦当時22歳女性

  1. 今年60歳になった私の子供が腹の中3ヶ月でした。ほんとうに苦しい日々でした。このような負ける戦争に大事な主人を戦場につれて行かれて、残念で残念で血嘆く思いで毎日過ごして居ります。戦争の様の悲惨な事は孫末代迄もしてはならないと、思います。主人の面影を胸にだきしめて暮らして居ります。主人の事は1日たりも忘れたことはありません。思い起せば戦後六十年と申しましても私たち遺族に致しましては、毎日淋しい苦しい日、又はあり日の主人の面影をしのぶことに涙なしでは居られません。このような敗戦の勝ち目の無い戦争なんか始めたばかりに、日本国民は悲惨な、又は恐ろしい思いしました事か今の若い人々にとうていおはかりにならないと思います。福井の町もアメリカのB29とやらの飛行機がやってきて、爆弾を街中に落とされて、一夜にして焦土と化してしまったのです。戦争がもう三ヶ月早く終わって居れば幾萬人の人の命が助かった事かと悲歎に暮れるばかりです。私の主人、大事な主人も三ヶ月早ければまだ元気で居りましたものを、東条と天皇もお恨みせずには居られません。本当に遺族の皆さんも思いは同じだと思います。どうせ負ける戦争なのになぜもっと早く終戦にしてもらえましたら、主人もまだ命がありましたものを、残念残念で胸もはりさけるおもいで居ります。戦争なんか始めたばかりに、小さな赤ちゃんにいたいけな罪の無い小さな子供さんに至るまで死んで行ったのです。本当に戦争なんて、孫末代までも起こしてはならないなと思います。どうか平和な日本であります様にせつに願いたいものです。
  2. 平和ほど良い物はありません。

原水禁世界平和大会報告 平和アンケート  終わりに  ページのトップへ 



終わりに

 まずはアンケートにお答えいただき、貴重な戦争体験を書いていただいた皆さんに感謝し、お礼申し上げます。

 歯科職員は皆、戦後生まれで平和を空気のように感じ生きてきました。普段私たちが車で通っている町や川で、60年前にこのような悲劇があったことは俄かには信じられないというのが正直なところです。しかしこれまでは事実であり体験を語ることもできず多くの方が亡くなられています。

 今も世界で多くの戦争が行われています。それは昔と違い、ハイテクを駆使したまるでビデオゲームのような戦争です。しかしそこでは何の罪のない一般の人たちが亡くなっておられ、それは60年前も今もなんら変わりありません。私たちはソファーに座り有り余る食べ物に囲まれ、ニュース映像をして戦争を俯瞰的に見ていますが、憲法9条が改定されればいすそのビデオゲームの主人公になるかもわかりません。

 空襲で亡くなられた方々に弔慰を示すと共に、その犠牲者の方が今後増えることのないような取り組みを職員一同していきたいと考えています。


原水禁世界平和大会報告  平和アンケート  終わりに  ページのトップへ ホームへ